northmaoのブログ

脳出血、教師のことが多くなりますが、基本徒然ならままに…。

バレンタインといえば

 私は50代女性ですが、すでに子供の頃盛んにチョコの受け渡しがされていました。とは、言うものの、私は誰にもあげたことはなく、子供だったのでデパートなんかでどうだったかは知りません。なのに、たくさんもらいました。

 というのは、モテたんです。女子から。小学校では音楽の同好会がありました。気の小さい私が、積極的になるきっかけでしたし、6年生になったらクラスのほとんどの子が委員会の委員長やクラブの部長などをやる中私も同好会の部長くらいは引き受けなければならなくなったのです。千人を超える大きな小学校でしたが父親がその学校の5年生の先生で同好会の五年生の子は私をよく知っていて、しかも妹も五年生でいて超優秀だったのです。気が弱いことは同じでしたが。先生の娘で抜群の知名度率を誇る私たちが当時盛んにされた児童会選挙に出なかったのは性格の所以です。妹なんて推薦されたのに泣いて嫌がったんだそうです。出れば当選間違いなしだったでしょう。私なんて推薦もされなかった…。のに、友達からは好かれる、その当時はすごくいい人だったんです。教師になって今でも思う、一人は欲しい人材だと思います。因みに今はそんないい人ではありません。

 そこの地区は、あんまり裕福じゃない方がいるところで、服装が良くなかったり、汚れていたり、六年生なのに平仮名がようやく読める程度の子がいたりとかで、嫌われたりいじめられたりこそはしてなかったと思いますが、やっぱり敬遠されていた子達がある一定以上いたのですが、私はそういう子達に分け隔てなく、勉強も丁寧に教え、理科の実験なんかのグループ活動でもしっかり仲間に入れるように仕事をさせたりするような子でした。その子達を嫌いじゃなく、むしろいい人だなぁと思ってました。いやあ、私はいい子だったなあ。なんでしょ、今のこのテイタラクは。漢字わかりません…。

そんなわけで、気が優しく、控えめな私は憧れの先輩となり溢れるほどのチョコをいただいたというわけです。そして、先生となりいただきます。子どもたちから。今の学校はチョコを持ってくることは禁止なんですか、家に帰ってからは自由です。わざわざ学科に持ってきてくれるんですね。手作りのものもありました。甘いもの大好きな私は、きっちりいただきましたよ。中には、髪の毛入りの、な、何の呪い?なんてチョコもありましたが…。

明るい脳出血4

 リハビリは、部屋ごとに担当が決まっていました。集中治療室は、容体が落ち着くと出ていく部屋なので、先生の立場からすると、担当の顔ぶれは割合早く変わったのだと思います。容体が安定したり、逆に亡くなってしまった方もいるでしょう。脳外科はシビアです。命に直結してます。私のリハビリも、二日ほどだったと思います。意識のない方も先生が体を動かし、リハビリします。そして、患者は意識が無くても命の危険がなく、安定したら別の部屋へ行きます。

 集中治療室にいた頃は、全く右手右足が動かなくなっていました。ベットの上で寝たきりになり、しっかり動く左だけを仕切りに動かしていました。動かないと手も足も日頃感じたことがないくらい重いです。実は以前腕の骨折で手術をしたことがあり、麻酔をした時などに腕の重さを実感したことがあったのでそこは懐かしい感覚でした。足は初めてでしたが。ベットの上で足を持ち上げることも、三角に立ち膝をすることもできませんでした。同じ格好で寝てばかりいるとだるくなってきて、足を動かして立ち膝にしようと思ったのですができません。力のある左足で右足を持ち上げ、左足をようやく立ち膝にしても、スルスルっとシーツの上を滑り真っ直ぐになってしまうのです。立ち膝にするだけでも筋肉を使ってるんですねえ。でも、それを果敢に繰り返すと、シーツと擦れ合う衣擦れの音とか左足をバタバタする音とか静かな機械音しかしない集中治療室の中ではうるさかったのでしょう。明らかに脳の手術をした40歳くらいのヤンキーぽいパンチパーマの隣の男性に「うるせー。」とつぶやかれてしまいました。ほとんど、読唇でわかりました。ちょっと、反省…。その折は、すみません。

 そんなふうにジタバタ何もできない状態でどんなリハビリをするのかと思いきや、リハビリの先生が指や足を動かしてくれるのです。それと、精神的なケアもあったのかもしれません。話し相手になってくれました。その頃の私の喋りは、聞き取りにくかったと思います。でも、盛んに話していたところを見るとまぁ通じるくらいではあったのでしょうね。看護婦さんの配慮で電話で夫と話せる場面があったのですが、電話では何を話しているか分からないと言われました。その後、毎日手紙と質問といろんなバリエーションの質問の答えの書いた付箋を何枚もつけたものが病室に届けられました。集中治療室は、携帯は禁止でしたし。夫はさぞかし驚いていたのでしょうね。日頃バリバリ教師として働き、すごいおしゃべりの私でしたから。あと、人間は顔を見て話すので、読唇や話の流れや顔の表情から伝えることも大きいのだと実感しました。電話は、あるヘルツは、あまり届かないとも聞きました。微妙な音は聞こえず、それで何を言っているのか分からなかったのかなと思います。まぁ、リハビリの先生も慣れていらっしゃるのだと思いますけど。

 因みに、先生は若いきれいな女性でした。結婚されたばかりだって言ってたかな?

明るい脳出血3

 病院で、当たり前ですが、脳出血のその現実性をあまり実感できず、動けないくせに。でも、仕事に行かなくていいということだけは1番身に染み、何を考えたか…通知表を書かなくていい…これでした。通知表についてはおいおい感想を述べますが、記述の多いことは私にとってはものすごく、それを人間の評価となると適当には書けるわけもなく、年2回は、明けない夜はないと呟き、栄養ドリンクを飲みながら頑張ったものです。しかも、私は傭兵教師で生活は夫の働きだけで十分普通に暮らせたので、いつも辞めたいと思っていたのに、子どもたちの魅力と何とかうちでやって欲しいという校長の教師冥利に尽きるお願いからでした。つまり、臨時の先生でした。それも、結構な確率でクラスの立て直しをしました。

 これで、自分の先生としてのやりがいから離れがたい気持ちへの諦めと仕事として子どもの命を守ることにおぼつかなさを覚え、堂々と辞める言い訳が立つことになったことにどこか安堵してました。変な話です。

 そしてリハビリは、入院した次の日から始まったのでした。すごいですよね。知らなかったです。

明るい脳出血2

 さて、病院に担ぎ込まれたのですが、家から徒歩25分くらいの近い脳外科でした。着替えたワンピースもネックレスも素早く取られてその手際の良さに感心してました。そして、CTやMRIなどの検査があり、点滴をさされ集中治療室へ。そして導尿などの管、バイタルサインを見る検査の線などを朝に胃ろうもして、線だらけでした。その間ずっと意識がありました。…なされるがまま。そこで数日過ごすことになりました。

 まずは、その日の夜。右手と右足に、違和感が…。いたたまれないような疼きがあります。例えるなら、正座などを長くして痺れ、強烈に痺れていたのが、徐々に治っていく最中の疼くような気持ち悪さです。そう言う感じの強烈ないたたまれなさです。今から思うと徐々に神経がつながらなく途上だったのですね。というわけで、その疼きのあまりのいたたまれなさに足をバタバタさせていたのか、自然と動いてしまうのか、とうとう注意されます。それは、男性の看護師でした。

「じっとしないと死ぬよ。」というようなことを言われたように思います。動いちゃうんだもんと、むっと言い返した覚えがあります。でも、考えてみれば、私の出血は脳幹部で呼吸や心臓などの生命維持を司る所です。痛くはないのですが確かに命に関わるところが出血していたのです。でも、本人は至ってそんな危機感はなく、その看護師さんを怖〜いと思っていたのでした。ハハハ

 不思議なことにそういう時というのは時間感覚が鈍感になり、寝たままでも意外と精神的に追い詰められずに過ごすことができ、ジィーッと目まぐるしく動き回る看護師さんや他の病人たちのことを眺めていられるものです。脳腫瘍の若い方もいました。自分のことは置いておいて気の毒に思いました。

明るい脳出血1

 小学校の先生をしてました。4月。子どもと1週間。コロナでお休みになってしまいました。仕方ない。この機会に名前と顔と教室を完璧にしてやろう!と思ってる矢先、脳出血になりました。それから4ヶ月の入院。やっぱり退職しました。でも、明るく楽しい入院生活でした。その顛末を。へへへ。

 さて、その日は、先生たちも、自宅研修をして、半分ずつの出勤を取り、自分の身も守ろうということになっていました。教育書を読んだり、教材を考えたりして過ごしている時、左目がチクッとしました。目を軽くこすり、でも目じゃないんです。もっと奥なんです。今思うとその時血管が切れたんですね。でも、その時はあれっ?と思っただけ、それだけのことでした。

 仕事の拘束時間も終わり、近所のショッピングモールで友人に会い物をもらう約束をしていました。自転車に乗り、友達に会い、物を渡してもらい、仲良しさんですがこのご時世、お茶もせずにすぐに別れました。その時ちょっと胸がムカムカするなぁと思いました。でも、ものの1分ほどで治まり、携帯の契約があったのでお店に寄り、タブレットにサインをしたのです。私は、書道もペン字も師範の腕前なんですが変な字です。ここもあれっと思ったのですがタブレットだからかなぁ?とこれもスルー。また、店員さんと話している時も少し口が回らない気がしました。それと自転車に乗ると右足がペダルから何度か外れました。自転車の調子が悪いなあとこれもスルー。自転車置き場で自転車を私の置き場所、上の段に持ち上げ、家に入りました。そして、夕飯を作ろうとした時、やっぱり口に違和感があるような気がしました。これには鈍感な私も変だと気付き、鏡を見てみました。歪んではいない気がします。声を出してみました。やっぱり変です。やばいっ!と思い子どもを呼びました。二十歳を超えた大学生です。呂律が回らないなど事情を話しこれは脳だと思ったので、病院に付きそうように言いました。子どももそれはやばいよと言いつつタクシーを呼んでくれました。私はと言うと、ダッシュでワンピースに着替え、化粧をし、玄関から出ました。鍵をかけたところで座り込み動けなくなりました。子どもは、慌てて救急車を呼び、タクシーを断り、唖然としてるところになんと夫が帰ってきたのです。ほんの数分のことだったと思います。座り込んでいたものの携帯で夫に事情を伝えようとしていたのですが、右手が動かず、字を打てず、動く左手ではうまく打てないのです。しかも、右手では携帯も持てないのです。字など打てません。夫がそこに帰ってきたのは本当にラッキーでした。帰る時間もまちまちな夫がこのタイミングで。

 それから救急車がすぐに来て、夫が付き添ってくれました。私も夫が来たことで安心し、夫と子どもに持っていた財布、つまり保険証やキャッシュカード、現金を渡し、暗証番号などを教えました。そして、脳外科へと運ばれたのです。

明日に続きますね。